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草加の歴史

草加市の誕生

昭和30年(1955年)、草加町・谷塚町(旧谷塚村)・新田村による町村合併の結果、 新生草加町が誕生し、その後の編入・分離によって現在の市域がほぼ確定しました。
昭和33年(1958年)11月1日には、県下21番目に市制を施行しました。

その後、東洋一といわれた大規模な住宅団地の造成、東武鉄道・営団地下鉄日比谷線(現東京メトロ日比谷線)相互乗り入れなどを受けて人口が急増し、都市化が進行しました。

草加市は昭和60年代以降、社会・経済情勢の変動を見すえながら治水や都市基盤の整備を推し進めています。
現在、水と緑を生かし、さらに環境にやさしい街づくりを進めるとともに、平成5年(1993年)に行った音楽都市宣言に基づく「音楽と文化のまちづくり」を掲げながら、「快適都市・草加」の実現に向けたさまざまな取り組みを展開しています。

草加市弁天

弁天には地名の由来がうかがえる昔話が残されている。昔、龍灯(水中で連なる光)が昇るという不思議な沼があった。ある晩、村人が正体を確かめようと沼に行くと、光の昇る沼底に、1体の美しい弁天様が沈んでいる。村人は拾い上げて、お宮を造り村の鎮守とした。
これが町内にある厳島神社の伝説で、弁天の由来といわれている。

ところで、弁天の旧名は、篠葉という。「シノ」は湿地を意味する。古綾瀬川に沿った「シノバ」すなわち「湿った場所」を意味し、かつては沼や湿地の多い土地だったことがうかがえる。

草加市中根

1822(文政5)年ごろから、中曽根村と称し、1879(明治12)年4月の町村制施行により東中曽根村となった。
1889(明治22)年4月には、篠葉(弁天)、槐戸(八幡町)、九左衛門新田(旭町)など9か村合併の新田村となった。
1955年(昭和30)1月に草加町と合併した際にも、大字東中曽根という大字は残されていた。
現町名は、1958(昭和33)年11月1日の市制施行に際して定められた。

中曽根の「ソネ」は、海中の岩、磯、自然堤防、扇状地末端、尾根などに由来する。
低湿地帯の中の微高地に付けられた地名である。
町内の泉福寺(1874(明治7)年廃寺)跡からは1370(応安3)年の板碑が発見されるなど、歴史の古さがしのばれる。

草加市松江

1931年(昭和6)5月1日に旧草加町の入り乱れた字名を廃し、新しい町名となった。
それまでの大字宿篠葉の大部分と大字谷古宇、大字吉笹原の飛地の部分を併せ、西側に綾瀬川と松並木があることから、松江と名付けられた。

旧宿篠葉は、草加宿開宿に伴い1606(慶長11)年に篠葉村(弁天)から分村したもので、1889(明治22)年まで続いた。その後、草加町大字宿篠葉と呼ばれていた。

なお、地内の出世弁財天は大川図書の作と伝えられている。町内には多くの飛地が存在し、郵便配達人が苦労した地区である

草加市八幡

現在の町名は地区内の八幡神社に由来し、1958(昭和33)年11月1日の市制施行により、草加町大字槐戸から改めたもの。

本来なら「槐」はエンジュと読み、サイカチは「皀莢」と書く。ともにマメ科の落葉高木だが、槐戸とかいて「サイカチド」と呼ぶようになった理由は定かではない。

サイカチの木が古綾瀬川の津(船着場)に多く生えていたという説と、村の入口である津から疫病神の上陸を遮るために「サイノ神」を祀ったところから名付けたという説がある。

草加市周辺の地形

今から約1万年前、関東平野の中央付近にまで古東京湾(ふるとうきょうわん)が進出していました。少しずつ海が後退すると、草加市の位置する中川低地一帯は、多くの河川と広大な湿地が広がる地域となりました。

「スープ皿の底」のように起伏の少ない草加市域は、多くの洪水に襲われてきました。 市域の南部にあたる毛長川周辺からは土器や古墳跡などが発見され、6世紀ごろには人々が河川の付近で活動を始めていたことがわかります。

やがて各地に集落もでき、さらに河川の作用によって生じた自然堤防上には街道も形成されていきました。

※草加市のHPより転載しました

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